
■まつりへの取り組み中津川市は中山道の宿場町であり、幕末の頃から子供たちが中心になって行う、ギオンバ(提灯行列)という伝統的な祭りが行われていました。昭和40年代から、商店会が年に一度市民への謝恩サービスに行っていた花火大会を発展的に継承し、市民が自由に参加できるみこし練り歩きを合わせ、市民まつり「中津川夏まつり」となりました。 「夏まつり」はさらに11年の歴史が経過、中津川市は6ヶ町村の合併の経緯から、従来はまつりの参加も旧中津町に留まり、全市民が参加して楽しむことができませんでした。 そこで、市政35周年を迎えた昭和62年、旧苗木藩主遠山家(現在の中津川市苗木地区)で発見された絵図(そこには約300年前、雨乞い踊りと見られる踊りを旗差しを背に太鼓・鐘を鳴らし農民が踊る様子が描かれていた)を基に「風流おどり」として再現し、これを加えた「おいでん祭」(一般公募のネーミング)として新たなスタートを切りました。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||
■風流おどり8月12日・13日、中津川のまちは「おいでん祭(いらっしゃい)」で、まつり一色になります。毎年、まちの人達はこの日のくるのを楽しみに待っています。この祭りの中でひときわ目を引くのが何といっても、13日に行われる「風流おどり」の時代絵巻です。 3メートルもある赤、黄、白・・・色とりどりの旗ざおを背に、大きな太鼓を抱えた男衆や編笠をかぶった浴衣の女衆が約400人。「ソーレ」「ソーレ」のかけ声と「カーン」「カーン」の鐘の音や太鼓の響きにあわせて駅前通りいっぱいに踊り歩きます。この雄大な踊りを見ようと駅前通りは約5万人の人出で賑わいます。 では、この「風流おどり」がいつ、どのようにして生まれ、多くの人の心をひきつけていったのでしょうか。
中津川市の北西には苗木という地区があり、そこには、一万石ほどの領地を持った苗木藩の領主遠山氏が代々城を構えておりました。明治時代に城は取り壊されましたが遠山家に伝わる品々は大切に保存されておりました。 時は昭和59年(1984年)のことです。遠山家の土蔵の虫干しをしていたときに、畳2枚分はあろうかという大きな絵図が見つかりました。その絵図には、大勢のおどり手や舟で川を渡る人や周りの風景などが生き生きと描かれていました。 おどりの一団は小太鼓、鐘、長い旗竿を背負った大太鼓、ザイふりの四役で一つの連を作っているのが分かります。おどり場へ行く連、おどりをしている連、おどり場に着いて順番を待つ連、山から降りてくる連、川原で宴会をしている連が今にも動き出すかのようでした。 それぞれの連はいろいろな集落や村から集まってきて、衣装や飾り、踊りを競い合ったのでしょうか。それとも雨乞いのために願いを込めて踊ったのでしょうか。しかし、この絵図には、全く説明が書かれていませんでしたので、想像してみるほかはありませんでした。 しばらくして、この1枚の絵図の話を知った地元の苗木の人たちや中津川市の青年会議所の人たちの中から、中津川市全体の祭りにこの踊りを復元させ、市を元気づけて市の「活性化」を図ったらどうか、というアイディアが持ち上がり、この1枚の絵図が多くの人の話題になっていきました。しかし、この1枚の絵から踊りを復元するには大変な苦労がありました。おどりの振り付けや笛、太鼓、鐘のリズムや曲には説明書がなく、関係者のみなさんの大変な協力でだんだんと踊りが出来上がっていきました。 やっと念願の踊りが2曲分復元され、その名も「風流おどり」と名付けられました。そして、「中津川夏祭りおいでん祭」の中心プログラムとして風流おどりを位置付け、祭りを盛り上げていくことが夏祭り実行委員会によって決まっていったのです。 苗木地区の苗木連を始め、市内から9つの連が祭りに参加を申し込み、練習が始まりました。重さ15キログラムもある旗竿や太鼓を身に着けての練習は厳しいものがありましたが、その成果が実る風流おどりが中津川のまちによみがえりました。 それから13年。新しい曲も加わり、現在12の連の風流おどりを中心としたおいでん祭も益々盛大になり、県内はもとより全国からもたくさんの人たちがこの「風流おどり」を楽しみに「おいでん祭」に訪れるようになったのです。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||
■平成22年度 第24回中津川夏まつり「おいでん祭」スケジュール
|
||||||||||||||||||||||||||||||||
■納涼花火大会 (詳細)
|
||||||||||||||||||||||||||||||||
| 中津川商工会議所ホームページ | ||||||||||||||||||||||||||||||||